倉敷緞通のはじまり
倉敷周辺は全国的にもイ草の栽培が盛んな地方で江戸時代から畳表などの製品が作られていました。
明治時代には花筵(花ござ)が海外輸出向けに作られ初めはアメリカの避暑地の敷物に用いられ、しだいに
中流以下の家庭にも広がり、明治三十二年頃には輸出年額一千万にも達しました。
しかし、粗製乱造や納期不確実などによりしだいに客を失い、昭和の初期には関税障壁などもあり不況に
おちいってしまいました。その頃、早島町で花筵製造に従事し、また発明家でもあった矢吹貫一郎は、外国人
の嗜好に合いそして日本の和洋折衷の建物にも合う敷物として金波織というものを考案しました。
これが倉敷緞通の前身です。



倉敷緞通と民芸
我が国初の西洋近代美術館を作った倉敷紡績二代目社長の大原孫三郎は、晩年には民芸にも深く傾斜していました。
柳宗悦をはじめ、濱田庄司、河井寛次郎、棟方志功、バーナード・リーチなどの多くの民芸運動の実践者たちが
度々倉敷を訪れ酒津焼の指導や彼等の作品展等を行っていました。大原孫三郎の侍医の三橋玉見は当時の倉敷地方の
文化グループの中心的人物で民芸を孫三郎に紹介した人物でもあります。倉敷緞通と民芸の人達との橋渡しもこの三橋が行っています。
昭和七年倉敷で濱田庄司が個展を開いた際、柳宗悦も来倉し、その両氏に三橋が当時は金波織と称していた織物を
みせたところ非常に気に入り、その後様々な指導を受けることになりました。
柳は当時はまだ無地だけであった緞通に縞柄を加えさせその図柄は染色家の芹沢銈介に依頼しました。
また自らは、倉敷緞通の名付け親にもなっています。



倉敷緞通の盛衰
倉敷緞通は倉敷の日本筵業株式会社で制作販売され倉敷特産の工芸品として全国にファンを広げていました。
また昭和九年上海「スパーク商会」との取引を皮切りに海外へも輸出され、年々増産の一途を辿っていましたが
太平洋戦争のため全て跡絶えてしまいました。
最盛期は昭和三十年から四十年代にかけてで、月間三百畳も生産してなお注文に追いつかないほどでした。
しかし、五十年代に入り原材料の高騰や物品税の関係で売れ行きが悪化し、更に職人の高齢化などが重なり
昭和六十一年に生産を止めてしまいました。


倉敷緞通の復興
「廃れていく伝統工芸品が多い中で、いいものは残し次の時代へ引き継いでいく。
それが文化のひとつの在り方ではないか。倉敷緞通もその一つだと思う。」
こうした考えから平成四年に倉敷緞通を復興させるための伝統産業復興研究所が発足、市や県の協力もいただき
平成五年に生産を再開しました。平成七年からは個人事業として、一間幅の織り機で三畳の物まで制作しています。


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